天使の鈴

 皆さん、耳を澄ましてみてください。リン、リン、リン〜と、鈴の音が聞こえますか? そう、聞こえなくて良かったです。もし聞こえても、きっとそれは、学校に通う小学生のランドセルか、中学生のカバンに付けた鈴が鳴っていたのでしょう。もし、天使の鈴の音を聞いたのでしたら、その音を聞いた人は、その人の記憶がみんな無くなって、赤ちゃんになってしまうからです。
天使にはいろいろな役目をする天使がいます。鈴係の天使は、人や動物を赤ちゃんにして、別の人や動物のお母さんのおなかの中に戻す役目をする係です。鈴係の天使は、良い行いをした動物を人間の赤ちゃんにして、お母さんのおなかの中に戻したり、悪いことをした人間を動物の赤ちゃんにして、動物のお母さんのおなかに戻したりしています。その時に、鈴係の天使が持っている鈴をリン、リン、リン〜と鳴らすと、その人間や動物の記憶がみんな無くなって、赤ちゃんになってしまうのです。

 天国は一日中明るく暖かい昼間です。暗い夜はありません。野山には草木が茂り、綺麗な花が咲き乱れています。天国に召された人々が楽しそうに過ごしていますし、鳥や昆虫、動物たちが、仲良く生きています。一方、地獄は真っ暗で寒いです。悪いことをした人たちが、うごめいています。中には鉄格子のある牢屋に入れられている人もいます。よほど悪いことをした人でしょうね。鈴係の天使はそのような天国や地獄の中を歩き回って、「次は誰を赤ちゃんにして、地上に戻したらよいだろうか」と、考えていました。
 最近、鈴係の天使は悩んでいました。それは、地獄の一番奥底の、鉄格子のある狭い牢屋に押し込められた道夫青年のことでした。その道夫青年は自分の両親を包丁で刺し殺したという、もっとも重い罪で、地獄に堕ちてきていました。重い罪で地獄に堕ちた人達は、地獄であらゆる辛い責めを受けて、最後にこの身動きもとれないような狭い牢屋に閉じこめられました。狭い牢屋に閉じこめられると、どのような悪人でも、苦しさから、その辛さから、のたうち回り、「もう悪いことはしないから、助けてくれ!」と騒ぎました。その声が、一寸先も見えないような牢屋の中で、動物のうめき声のように聞こえました。
 道夫青年は狭い牢屋の中で、ただじっと空間の一転を見つめて、人形のようにじっとしているだけでした。真っ暗で何も見えないけれど、目をいっぱいに見開いて、何かを一心不乱に見ようとしていました。普通なら、このように何も反省を示さないような人は、とてつもない悪人のように思われます。けれど、鈴係の天使が地獄でこの道夫青年を見たとき、一目見ただけでこの青年が根っからの悪人ではないと思えました。とても道夫青年のことが気になっていました。

 この道夫は遊び人で飲んだくれの父親と、生活を守るために一生懸命働く母親との間に生まれました。父親は仕事をずる休みしては、賭け事で遊び回り、酒を飲み回りました。生活費の大半を無駄遣いしていました。毎日のように父親と母親とが口論し、父親が母親を叩くのを、道夫は見て育っていました。母親はその日の生活費にも困っていましたから、道夫を連れて、毎日働きに出ていました。母親が稼ぐ僅かな収入で道夫は育てられていました。道夫を育てるために一生懸命働く母親を、道夫は見て育っていましたから、「大きくなったら、早く働いて、お母さんを楽にして上げたいな」と思っていました。
 道夫は小学生の時から新聞配達を始めました。道夫の稼ぐお金で、生活が少しばかり楽になったところで、今までの無理がたった母親が病気になって寝込んでしまいました。それ以後は道夫が新聞配達で稼ぐお金で、母親の薬代と生活費をまかなわなければならなかったのでした。道夫にとってはそれはそれは辛いときが続きました。道夫は父親を恨みました。今度は道夫と父親との喧嘩が続きました。それを毎回、病で苦しむ母親が止めました。
ある時道夫は母親に言いました。
「母ちゃんは、なぜ、あんな父ちゃんと結婚したんだ?あんな父ちゃんと結婚しなければ、母ちゃんも俺も、こんなに苦しまなくて済んだのに・・・」
「みっちゃん、ごめんね。本当に済まないね。今に母さんは元気になるから、もう少し我慢をしておくれね。」
「でも、俺、父ちゃんを許せない。今度帰ってきたら、ぶっ殺してやる。」
「みっちゃん、そんなこと言わないでおくれ。そんなことをしたら、損をするのはみっちゃんだから。どうか母さんに免じて、そんなことをしないでおくれ。」
母親は痩せこけた青白い頬に涙を流して、道夫の両手をつかんで、拝むように言いました。道夫も泣けてきました。二人はしばらく無言で泣き続けました。  
 母親の病気は一向に改善しないばかりか、どんどん悪化していきました。母親の辛そうな顔を見ていると道夫は耐えられませんでした。薬代はかさむ一方でした。道夫の新聞配達のお金だけではとても生活ができませんでした。
 ある日の夜、道夫が新聞配達の仕事を終えて帰ってきたとき、父親が帰ってきていました。父親は母親の側で酒を飲んでいました。母親は顔に苦痛の色を浮かべて寝ていました。道夫は父親を許せませんでした。怒りから父親に言いました。
「父ちゃん、酒を飲むお金があるのなら、そのお金をくれ。母ちゃんの病院のお金を払うから。」
「そんな金、あるか、この馬鹿野郎!」
「でも、酒、止めたら、お金ができるだろう。」
「何をぬかす、このがきめが!」
そう怒鳴ると、思い切り父親は道夫の頭を殴ったのでした。道夫も直ぐに父親に殴りかかりました。親子の間に殴り合いの喧嘩が始まりました。けれど母親にはもう、二人の喧嘩を止めに入る元気すらなくなっていました。
 道夫は大きくなっていたといってもまだ父親の力には叶いませんでした。酷く殴られ、蹴飛ばされた道夫は、鼻血を流しながら台所に飛んでいきました。そして包丁をつかむとそれを持って引き返し、父親の腹を刺しました。父親大声を上げて倒れました。その倒れた父親を、道夫は持っていた包丁で何度も、何度も刺しました。
 振り返って母親を見ると、母親は上半身だけ起こして、声も上げずに泣いていました。その姿を見た道夫は、持っていた包丁で、母親も刺してしまったのです。母親が息絶えるのを確かめた後、道夫は家を飛び出しました。行く当てなどありません。暗い夜道を、道夫はひたすら走りました。そして、ふと気づくと大きな川の側に来ていました。道夫は何も考えませんでした。水面に向かって飛び込みました。

 鈴係の天使は地獄の中をゆっくり歩いていました。腕を組んでしばらく考えた後、頭を左右に振りました。
「こんなはずではなかったのに・・・。私の失敗だったなあ。」
鈴係の天使は独り言を言いました。
「あの夫婦がこの道夫を、こんな風にしてしまうとは、私も思わなかった。あの子が本当に悪いのではない。あのような酷い夫婦に男の子を託した私が悪かった。あの子にもう一度チャンスを与える必要がある。そうしないと、私の良心が許さない。」
 地獄の責めで体中傷だらけの道夫が鈴係の天使の前に連れてこられました。鈴係の天使は道夫を見つめました。道夫はうつろな目でボヤーっと、空を見ていました。鈴係の天使は、しばらく黙って道夫を見ていました。そして、おもむろに鈴を取り出して、「り、り、り〜ん」と鳴らしました。すると、道夫の記憶がすっと消えていって、道夫は小さな小さな人間の赤ちゃんになっていきました。
 その後、道夫がどうなったのか、私も知りません。いくら私が鈴係の天使に、道夫はどうなったと聞いても、「それは職務上の秘密」と言って、がんとして教えてくれませんでした。きっと鈴係の天使が、道夫にふさわしい夫婦に赤ちゃんとして授けたと思います。

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