盲導犬ラッシュ

 ある土曜日の、学校帰りのバスの中のことでした。僕は期末テストの準備のために、座席に座って、英語の単語帳を繰って、単語の暗記をしていました。バスは空いてはいましたが、あいた座席はありませんでした。

 ある停留所で盲人の人が盲導犬を連れて、このバスに乗ってきました。

「ああ、ラブだなあ。可愛いなあ。」

と僕が思ったとき、盲導犬の目と僕の目とが一瞬合ってしまいました。僕ははっとしました。盲導犬が会釈をしたからです。僕はすかさず席を立つと、

「こちらにどうぞ。」

と言いました。そるとその盲導犬は、さも当り前のように、その盲人の人を案内して、僕の空けた座席の所に来ました。

「ありがとうございます。」

盲人の人は深深く頭を下げると、座席に腰をかけました。するとその盲導犬も僕にちょこんと頭を下げて、盲人の人の足元に丸く座り込みました。バスの中の人は皆この光景を感心して、黙ってみていました。

 僕も感心してこの盲導犬を見ていたのですが、何か引っかかるところがありました。この盲導犬にどこか見覚えがあったのでした。確かに見かけだけで、以前僕の家で飼ったことのある犬と他の犬とを、区別なんかできません。それに僕の飼っていた犬は遠く長野県に行って、そこで働いているはずです。こんなところに来ているはずがありません。そう思っても、僕はどこかこの盲導犬が気になりました。

 そう思ってこの盲導犬を見ていたら、突然盲導犬は頭を持ち上げて言いました。

「お兄ちゃん、お久しぶりね。でも、ごめんなさい。いま勤務中だから、お相手、できないの。」

僕はびっくりしました。思わず

「ラッシュなの!」

と大声をあげてしまいました。すると盲人の人が僕の方を向いて

「あれ、ラッシュを御存知なのですか?」

と不思議そうに言いました。僕はますますびっくりして

「え、じゃあ、やっぱりラッシュなの?」

と言うと、盲人の人は

「ええ、そうですよ。ラッシュです。」

と言いました。盲導犬は僕たちの会話には無頓着に、のばした前足の上に顎を乗せて、大きな目玉だけキョロキョロさせて、じっとしていました。そこで僕は

「でも、ラッシュは長野県にいるはずです。」と質問しますと、

「ええ、そうなんです。今日は友達を訪ねて長野県から出て来ました。するとあなたはラッシュの里親だった方ですか?」

と盲人の人は逆に僕に聞いてきました。

「ええ、ラッシュと別れてもう三年以上になります。へえ、ラッシュって、こんなに偉くなったの。」

僕は感心して、ラッシュを見ました。ラッシュも上目遣いに僕を見ていました。

 こんな会話をしているうちに、僕の降りる停留場にきました。僕は盲人の人に挨拶すると、その後ラッシュにも

「ラッシュ、バイ、バイ。元気でね。」

と声をかけました。するとラッシュはまた頭だけ持ち上げて、

「兄ちゃんも元気でね。長野に遊びにきてね。さようなら。」

と言いました。僕は小さく手を振って、バスを降りました。

 僕は走り去るバスを見送っていました。すると一緒にバスを降りた女性が

「あなたがあの盲導犬を育てたのですか?」

と声をかけてきました。

「そうです。赤ちゃんの時から、一才まで、僕の家で育てました。その後訓練所で訓練を受けて、盲導犬になりました。とてもいい犬でしょ。」

僕は少し自慢しました。

「ほんとに偉い犬ね。うちのコロもあんなだといいのにね。」

と女性は言いました。

 そのことがあってから一週間ぐらい経った頃、僕は手紙を受け取りました。差出人は例の盲人の人でした。手紙の中には丁寧なお礼と、長野への招待が書いてありました。その手紙と一緒にもう一通の手紙が同封されていました。その手紙の字はとても下手で、なかなか読めませんでしたが、何度も読み直すうちに、それがラッシュからの手紙とわかりました。

「お兄ちゃんへ。バスの中でせっかく会えたのに、私がお仕事中だったので、お兄ちゃんと遊べませんでした。今度長野に遊びにきてください。かけっこや、ボールで遊びましょう。待ってます。」

と書いてありました。そこで僕は、来年の夏休みに長野に行くことを決心しました。

 

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