健ちゃんの小バス旅行

 昔のバスは前から見るととても面白い形をしていました。まず第一に大きく前に突き出した鼻が目に付きました。その鼻の下にはきりりと一直線に結んだ口が有りました。鼻の両脇には頬骨が盛り上がっており、その頬骨の上には小さな丸い眼鏡がちょこんと乗っていました。頬はまん丸な車です。顔の上半分には大きな目が二つ光っていました。目の上には額はなくて、そのままはげ坊主の頭となっていました。健ちゃんはこのバスを見るのが好きでした。健ちゃんはバスの来る時刻になると、停留場がある村の広場によくバスを見に出かけました。

 バスは二時間に一本ぐらいしか来ませんでしたから、見に行くタイミングを間違えると大変です。広場の隅で長いことバスを待たなければなりませんでした。それでも健ちゃんは、一人で石蹴りをしたり、地面に絵を描いたりしてバスを待ち続けました。そしてバスが来てバス停に止まると、バスの近くまで駆け寄ってバスを眺め、客の乗り終えたバスが土煙を上げて走り去るまで、ぽかーんとその後ろ姿を見続けていました。

 健ちゃんは未だバスに乗ったことはありませんでしたから、一度バスに乗ってみたいとの強い希望を持っていました。しかしお父さん、お母さんは忙しくてバスに乗ってどこかに出かけるというようなことはありませんでしたし、健ちゃんの方から、どこかに連れていってくれとも頼めませんでした。

 ある日、健ちゃんはバスに乗ろうとする人の後ろに並んでみました。前の人たちが切符を出して、車掌さんに鋏を入れてもらってバスに乗っていきます。健ちゃんは前の大人の人の後に付いてさっとバスに乗ってしまいましたが、車掌さんはそれを気にもとめませんでした。

 健ちゃんはあこがれのバスに乗れました。窓側の席にぴょーんと腰掛けると、バスはすぐに動き出しました。村の景色がどんどん後ろに飛んでいってしまいます。座席が上下、左右に揺れます。健ちゃんはわくわくする気持ちを抑えて、じっと窓の外を眺めていました。

 バスには数名の乗客が乗っていましたが、みんな黙り込んでいました。もししゃべったとしても、この大きなエンジンの音や、がたごというバスの振動音に遮られて、きっと聞こえないのではないでしょうか。車掌さんの通る声ですら、よく聞き取れないぐらいでしたから。

 バスは海岸に沿って走っていきました。このあたりまで兄ちゃんたちと歩いて来たことがありました。しかし、岬を越えるともうそこから先は見たことのない景色ばかりです。健ちゃんはだんだん不安になってきました。しかしバスは健ちゃんの気持ちには無関係にどんどん走るばかりで、いっこうに止まる様子はありません。健ちゃんはどうしてよいやら全くわかりません。だんだん泣きたい気持ちになってきました。

 そのうちバスが止まりました。男の人が乗降口に向かって歩いています。健ちゃんはあわててその人の後についてバスを降りました。健ちゃんがバスを降りると、バスはまた轟音と土埃を舞いあげて走り去ってしまいました。健ちゃんはひとまずほっとしました。しかし未だ安心はできないのです。家に帰らなければならないからです。健ちゃんは今バスが来た道をとぼとぼと歩き始めました。

 真夏の太陽がじりじりと照りつけます。汗がだらだらと額や頬から流れ落ちます。山の中の道を歩いている人はありません。健ちゃんは泣きたいのを我慢してひたすら歩き続けました。それでも道ばたの木陰はとてもよい憩いを健ちゃんに与えてくれました。所々に小さな流れもあったので、健ちゃんは十分に渇きをいやすこともできました。

 そのようにして歩いている内に、健ちゃんには余裕がでてきました。歩いてさえいれば帰れる自身がでてきたからでした。時々鼻歌も歌いました。日陰の道にさしかかると、スキップもしました。

 登り道になったところを、大八車を引いている人に追いつきました。健ちゃんはその後を力一杯押し始めました。大八車を引っ張っていた老人はびっくりして振り返り、

「僕、ありがとう。」

といって、健ちゃんと力を合わせて代八車を引きました。まもなく坂を上りきってしまうことができました。

 馬車ががちゃがちゃ、がらがらと大きな音を立てて健ちゃんに追いついてきました。

「おい、ぼうず。どこまでいくんだ?」

「出港。」

「ずいぶん遠くまでいくんだな。じゃあ、岬まで乗れや。」

といって、荷物が乗っていない馬車の後部に健ちゃんを乗せてくれました。

 岬に着けば後三十分も歩くと家に帰れます。健ちゃんは馬車の人にお礼を言って、歩き始めました。

 家にたどり着いてみると、家の中には誰もいませんでした。誰にも見つからないで帰れたので、健ちゃんはほっとしました。裸になって、井戸水を頭からかぶり、おやつのふかし芋を一本食べ終わると、大きくあくびをしました。

 健ちゃんは満足でした。しかしもう二度と、一人でバスには乗らないと決心しました。

 

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