水仙

 むかし、ある国の山奥に、一人の若い大柄な男が住んでいた。その男のいでたちと言ったら、髪や髭はぼうぼうで、獣の皮で作った着物を着て、獣の皮で作った靴をはいていた。まさに山男であった。男は山の木を切って薪を作ったり、炭を焼いたりして、それを町で売って、生活をしていた。また、山にいる鳥や獣を捕まえたりもしていた。

 幼いときに両親をなくしたこの男は、ずっと山の中で、一人で暮らしていた。町へ行っても、誰もこの山男を相手にしてはくれなかった。町の子供達の中には、男めがけて石を投げるものさえいた。しかし男は平気だった。町で薪や炭が売れて、少々のお米が買えさえすれば、ほかに町には用はなかった。興味もなかった。山に帰れば、大自然が男を包んでくれた。孤独をなぐさめてくれた。男にはそれで十分だった。

 ある日、男は鹿を追って、いつのまにか西の谷に入って行ってしまった。

「西の谷だけは、どんな事があっても行ってはならねえ。あそこは、魔物がすんでるでのう。行ってはならねえぞ。」

と、男は両親から強く言い聞かされていた。男は西の谷に迷い込んだと気づくと、鹿を追うのを止めて、急いで帰ろうとした。ちょうど帰ろうとしたその時、男は谷の方角から、高くて快い女の笑い声を聞いた。その声は男を立ち尽くさせた。その声は男を捕らえてしまった。

 いままで町で、男はいろいろなおんなの声を聞いてきた。いままでは、その聞いた女の声に何の魅力も感じなかった。時には嫌気すら感じた。しかし、いまこの西の谷で聞いた女の声は、いままでにない魔力をもっていた。

「誰なんだ?そもそもこんな山の中に、女が住んでいるはずかないのに。」

男はそう思うと、声のした方へ、谷へと降りて行った。

 谷川の清らかなに沿って、いくつかの庵があった。男は大きな木の陰に隠れて、遠くからその場のようすをうかがた。庵の側で、若い女が澄んだ声で、年老いた男と楽しそうに話ていた。女も男も、上から下まで白い着物を着ていた。女は真っ黒な長い髪を、根元で束ねただけで、背中にたらしていた。このとき男は生まれて初めて、女の姿を美しいと思った。男は女だけをじっと見つめていた。やかて女は老人の後に続いて、庵の中へ吸い込まれるように消えて行った。

 洞穴の自分の家に帰っても、男は西の谷で見た女を忘れられなかった。男は女についていろいろと考えていた。遠くてよく見えなかったが、女は鼻筋の通った、美しい顔立ちをしていると思った。細くてしなやかな体や手足の動きを、天女の様だと思った。その夜、焚火の側で、西の谷で見た女に思いを巡らしている内に、男はいつのまにか深い眠りに落ちてしまった。そして翌朝目を覚ましたときには、お日様はかなり空高く上っていた。男はとび起きると、すぐに西の谷へ向かって家を出た。男はきのう見た女のことで、ずっと頭がいっぱいだった。

 男は西の谷につくと、きのう隠れるのに使った、大きな木の陰に隠れて、谷川に沿ってある庵を見つめていた。ときどき庵の周りを、白い着物を着た男達が歩いた。それ以外は、あたりはひっそりと静まり返っていた。きのう見た女はいつまでたっても現われなかった。

 こ一時間、様子をうかがった後、ぼつぼつ帰ろうかと思ったとき、誰かに背中をぽんと叩かれて、さすがの男も飛び上がるほどびっくりした。振り返ってみると、きのう見た女が自分の口の前に人差指を当てて

「シー。」

と、声を立てるなという仕草をしていた。男は女の顔をじっと見つめていた。美しい顔立ちだった。しかし、何か思いあぐねている表情をしていた。その細い体を、きのうと同じ真っ白な着物で被っていた。女も驚いている男の目を、じっと見つめていた。

 やがて女は、何か決断したらしく、うつむいて小さな声で言った。

「私をあなたの家に連れて行って下さい。」

きっぱりとしたその言葉を聞いて、男は改めてびっくりした。

「早く連れて行って下さい。」

女は命令するように言った。男はその言葉に、すなおに黙って従がった。男が歩き出すと、女はその後に従った。女は、女ではとても歩けないような山道を、平気でどんどんついてきた。このことから

「この女は普通の女ではない。ひょっとしたら、狐が化けて、自分ををたぶらかせているのではないかな。」

と男は女を疑いもした。しかし女の思い詰めた顔を見ると、その疑いはすぐにどこかへ消えていった。

 洞窟の男の家に着くと、女は自分の身の上話を始めた。それによると、西の谷の庵は仙人達の修行をする道場だそうだ。女はある仙人の娘で名前を水仙と言った。仙人の子供は仙人にならなければならない掟があった。女は仙人になって、ある仙人の若者と結婚するようにと、親から要求されていた。しかし女は仙人になりたくなかった。人間にあこがれ、人間になりたいと思っていた。だから仙人の修行場から逃げ出すことばかりを考えていたそうだ。そんなおり、遠くの木の陰から女を見つめている男に気づき、翌日男を待ち伏せていたと女は言った。

 女は続けた。

「初め、あなたを近くで見たとき、私は失敗をしたと思いました。余りにも私の思っていた人間の男とは、かけ離れた格好をしているのですもの。とても私の将来を託す人には見えませんでした。」

女は大きな息をすると、男の目をしばらく見つめてから、続けた。

「けれど、あなたの後ろ姿を見ている内に、私には確信ができました。あなたが間違いなく私を守ってくれる人だと思えるようになりました。そしてあなたの目を見たとき、私は私の思ったことに自信を持ちました。」

言い終わると、女はそっと男に寄りかかった。男はその太い腕で女を支えた。

 

 男と女の幸せな日々が続いた。男は髪も切ったし、髭も剃った。住み易いように家をなおした。男はいままで以上に働いて、町で食べ物や布を買ってきた。女は食事をつくり、着物を縫った。女は人間である喜びを全身で感じて生きていた。

 そのようなある日、真っ白な着物を着た老人が二人の家を訪れた。女はその老人を見るなり、わなわな震えて、男の後ろに隠れた。その老人は女の父親だった。老人はおもむろに口を開いた。

「いま水仙が幸せなことはよく知っている。わしも水仙が幸せなら、このままにしておいてやりたい。だからわしも、このまま水仙がここにおれるようにいろいろと手を尽くしてきた。しかし掟は掟だ。掟には従わなくてはならない。わしも万策尽きた。いよいよ掟が執行されることになった。わしは今日、そのことをいいにきた。」

男の背中では女が激しく泣いていた。

「仙人様、どうして水仙が俺と一緒にいてはいけないだ。」

男はくいかかるように老人に言った。

「それが掟だ。水仙はもどって仙人となるか、それともここで死ぬか、どちらかだ。」

老人はきっぱりと言うとゆっくりと立ち去っていった。

 老人が立ち去った後も女は泣き続けた。男は女を抱きしめていた。

「絶対に俺がお前を守る。」

男は女に言った。

「私もいつまでもあなたと一緒にいます。」

二人は改めて硬い約束を交わした。男は狩に使う弓や槍や刀の手入れをした。女はそのようすを黙って、たのもしそうに見ていた。

 その夜、男はしっかりと戸締りを確かめると、枕元に刀をおいて、女と床を並べて寝た。静かな夜だった。女は安心して、静かな寝息を立てて、眠っていた。それを見て、男も安心して、眠りこんでしまった。その夜は何事もなく過ぎていった。

 朝になって、男は目をさまして、びっくりした。隣の床に寝ているはずの女がいなかったからだ。男はあわてた。家中を捜してまわった。しかし女はどこにもいなかった。戸もきちんと閉まっており、外に出かけたようすはなかった。狐につままれた思いだった。へなへなと、女の寝ていた床の側に座り込んだとき、女の床の上に一枚の書置きを見つけた。

 

−−私はいなくなりますが、死んではいません。いつまでも、いつまでもあなたの側にいます。庭に出てみて下さい。白い小さな花が咲いています。それが私です。いつまでも、いつまでも、私を守って下さい。−−

 

男は庭に出てみた。庭には真っ白な水仙の花が一輪だけ、明るい太陽の光を浴びて、輝くように咲いていた。その季節外れの水仙の花は、女のように清楚で美しかった。男は水仙の花の前に座り込むと、生まれて初めて、長い時間涙を流し続けた。

 それ以後、その水仙の花は、男が齢老いて死ぬまで、枯れる事なく咲続けたそうだ。男が死んで、この水仙の花がどうなったかわからない。しかしこの水仙の子孫はいたるところで見られていますよね。

 

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