千香ちゃんと花びらの湖

千香ちゃんは今日もお腹が痛くて学校を休みました。お母さんは今日もご機嫌斜め。バタ〜ンと、荒々しく玄関の鉄のドアを閉めて、お母さんはお勤めに出かけてしまいました。布団に潜り込んでいた千香ちゃんは、ドアの音で身をブルブルっと振るわせた後、何分かして、布団から顔を出してみました。千香ちゃんの机の上で、ぬいぐるみの小熊のポンが心配そうに千香ちゃんを見ていました。押し入れの戸の隙間から、ぬいぐるみの子犬のモクも、やはり心配そうに千香ちゃんを見ていました。
 しばらくすると、千香ちゃんはベッドから降りて、パジャマのままで居間に行き、テレビをつけて、お気に入りのゲームを始めました。小一時間ゲームをすると、千香ちゃんはゲームにも飽きてしまいました。静かな春の日でした。窓ガラスを通して明るい光が部屋の中にさんさんと差し込んできていました。その光を浴びて、千香ちゃんは絵本を読み始めました。何回も読んだことのある絵本でした。その絵本を何冊か読んだ後、千香ちゃんは窓辺に行って、少しだけ窓を開けて、外を覗いてみました。
 千香ちゃんはこの何日か、外には出て行っていません。毎朝、お腹が痛くなるために、学校には行けなかったのです。病気だからと言うことで、毎日寝ているか、家の中でぶらぶらして過ごしていました。
 二、三日前、千香ちゃんが窓から覗いたときには、団地の敷地の中は枯れ木ばかりでした。ところが今日、窓から顔を出して覗いてみると、団地の敷地は薄いピンクの雲で埋め尽くされていました。
「わぁ〜、きれ〜い。行ってみようとっと。」
千香ちゃんは服を着替えると、そっと玄関のドアをそっと開けて、外には誰もいないことを確かめると、階段を下りて、団地の敷地に出てみました。
 敷地の中の桜の木が満開でした。今年はつぼみだった桜の花が、あっという間に満開になったのでしょう。空が淡いピンクの雲で覆われていました。ピンクの桜の花びらが、時折小雨のように、パラぱらっと舞ってきました。桜の木々の周囲はピンクの花びらの湖になっていました。ピンクの波が、寄せては返していました。千香ちゃんはおもしろくて、寄せては返すピンクの波をしばらく見つめていました。
 千香ちゃんは思いきって足をピンクの湖につけてみました。ピンクの波が千香ちゃんの足に当たっても、千香ちゃんの足は濡れませんでした。千香ちゃんはもう一方の足もピンクの湖につけてみました。おもしろいようにピンクの波が千香ちゃんの足を洗いました。千香ちゃんは少しずつ、湖の沖の方へ出て行ってみました。千香ちゃんはピンクの湖の上を歩くことができたのでした。うれしくて、楽しくて、千香ちゃんはスキップも始めてしまいました。
 遠くから千香ちゃんを呼ぶ声が聞こえました。振り返って見ると、ぬいぐるみの子犬のモクがピンクの湖の上を、ピンクの水しぶきを上げながら走ってきました。千香ちゃんがモクを抱き上げると、モクはうれしそうにしっぽを振りながら、千香ちゃんの顔を舌でぺろぺろとなめました。モクの後から、ぬいぐるみの小熊のポンが、よっちらよっちらと、丸い体を揺らせて、息を切らせながらやってきました。
モクが
「何かしようよ。」
と、言いました。千香ちゃんは
「じゃあ、鬼ごっこしよう?」
と、提案しました。モクもポンも
「鬼ごっこしよう、鬼ごっこしよう。」
と、言いました。みんなでジャンケンポンをしました。千香ちゃんがチョキを出しました。モクもポンもグウでした。
「千香の鬼!さあ、つかまえるわよ!」
千香ちゃんはそういうと、モクとポンとを追いかけました。
 千香ちゃん達が鬼ごっこをして走り回ると、ピンクの花びらの波がだんだん大きくなってきました。ピンクの花びらの雨もだんだんひどくなり、大雨になってしまいました。
「嵐になったから帰るわよ。」
と、言って、千香ちゃんはモクやポンを呼び寄せましたが、どちらに帰ったらよいのか全く分かりません。周囲はピンクの雲で覆われていたからです。千香ちゃんはモクとポンをだっこすると、疲れからその場に倒れてしまいました。倒れた千香ちゃんをピンクの花びらの波が遠慮無く襲いました。ピンクの花びらの雨が千香ちゃんの上に降り注ぎ続けました。
 長いこと、千香ちゃんは眠り続けていました。千香ちゃんが目を覚ますと、千香ちゃんはベッドの上で寝ていました。両脇からモクとポンとが心配そうにのぞき込んでいました。「どうして、千香はここにいるの?いつ家に帰ったのかしら?」
けれどモクもポンもいつものぬいぐるみにかえっていて、何も答えてくれませんでした。でもね、本当はね、桜の花の精が千香ちゃんをだっこして、部屋まで連れて帰ったのですって。

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